脚気対策の功労者 高木兼寛
日本の疫学の父
熊本県出身の偉大な医学者として北里柴三郎がいる。隣県の宮崎には、北里と並ぶ医学者として高木兼寛がいる。
高木は脚気対策に成功し、世界8大ビタミン学者として南極大陸にも名前を残している人物である。また慈恵会医科大学の前身である医師養成所や、日本初の看護学校を創設するなど医療の発展にも力をつくした。しかし、その名声はあまり知られていない。是非この場でひとりの偉大な医学者を紹介したい。
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高木兼寛は,宮崎県高岡町(現在は宮崎市)出身の海軍軍医である。今でこそ脚気の原因はビタミンB1の不足であることが明らかにされているが、明治時代は原因不明の病気として、たいへん恐れられた。イギリスへの留学経験のあった高木は、イギリスでは見られなかった脚気の原因が和食にあると考え、特に「白米」に注目した。
高木は自分の仮説を証明するため、大量の脚気患者が発生した「戦艦龍驤(りゅうじょう)」と同一航路をとる「戦艦筑波(つくば)」で、白米に麦を加える」という新しい食事療法の導入を試みた。その結果、「筑波」乗組員の脚気患者は激減し、その原因が白米食にあることを明らかにしたのである。そして、高木は海軍の食事を米・麦混合食と変更し、脚気患者を減らすことに成功した。
一方、陸軍軍医首脳 森林太郎(鴎外)は、白米主体である和食の優位性を実験研究によって証明し、高木の説を"統計にもとづく学理なき説"と非難した。陸軍では高木の学説を採用することなく白米食を続け、その後も多くの脚気患者を発生させることになる。
歴史を振り返ったとき、実験研究による病因解明に先立ち病気の治療法が確立した例がいくつかある。また、原因が明らかになっても、治療ができない病気もある。分子生物学を中心とした分野が先端医学の主流である昨今、臨床疫学研究の意義を日本で初めて証明したのが高木兼寛なのである。高木はビタミンB1不足という脚気の根本的な原因がわからなくても、食事を変更することによって脚気患者を減らせることに気づいたのである。
脚気の原因をめぐる高木兼寛と森林太郎(鴎外)との学問的対決が、吉村昭著"白い航跡"に描かれている。機会をみつけ、是非一読してほしい。
関連リンク
高岡町合併特例区 偉人「高木兼寛」
http://www.takaoka.city.miyazaki.miyazaki.jp/takagi/index.html