分子疫学 | 熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学分野 公衆衛生学講座

熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学講座 公衆衛生学分野では、疫学に分子生物学の視点・技術をとりいれた分子疫学を基盤に予防医学と環境医学研究を行っています。

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分子疫学

分子疫学とは、何か?

分子疫学という言葉は一般にはまだなじみがうすいかもしれないが、技術的な定義としては、"疫学的手法に分子生物学が取り入れられた新しい領域"、目的としての定義は"分子レベルで同定された遺伝及び環境因子と、家庭内、地域の疾病発生、分布、予防との関係を研究する科学である"といえる。癌研究の場合、従来の疫学は患者の病歴やライフスタイルと発癌率との関係などから、リスク要因の解明とその定量化に大きく貢献してきた。しかし、発癌物質に曝露された後、実際に発症するまでの間に生体内でどのようなことが起こっているのかということに関してはブラックボックスの状態であった(図1)。
図1 従来の疫学と分子疫学との比較
また、癌のような生活習慣病は決して環境要因によってのみ発症するのではなく、遺伝要因と環境要因の相互作用の結果発症する。従って、ブラックボックスの中身である遺伝要因を無視することはできない。しかし、従来の疫学では生体内の変化を検索しうるような有効な技術がなかったこともあり、環境要因に研究の重点がおかれ、遺伝要因に関してはあまり研究が行われてこなかった。近年の分子生物学の進歩は生体内変化や遺伝子要因も分析を可能にしたのである。

また、従来の疫学は、エンドポイントを疾病発症におくことが多いため結果を得るためには長時間を有し、また疾病発症という犠牲者がでて初めて結果が得られるという宿命的ともいえる短所をもっている。しかし、ブラックボックスの中身、すなわち、生体内変化をバイオマーカー(生体指標)としてとらえることができれば、エンドポイントを疾病発症以前(癌の場合ならば前癌病変)におくことができる(図1)。その結果、研究期間の短縮のうえ、疾病を可逆的な段階でとらえることも可能となり、発症そのものを抑えることが可能になる。従来の疫学と比較し、分子疫学の長所はまさにこれらの点にある。分子疫学は従来の標準的な疫学の手法である、症例の病歴、質問票などに加え、分子生物学の感度の高い実験的方法論を併せもっているのである。

バイオマーカーについて

バイオマーカーは一般に 1)曝露マーカー 2)影響マーカー 3)感受性マーカーの3つに大別されている。
図2 発癌機構とバイオマーカー

曝露マーカーは生体の成分中に測定される、外来性物質、その代謝産物、あるいは標的となる分子や細胞と生体との相互作用による生成物である。一言でいえば、外来化学物質の内部曝露量を測定するものである。従って、その測定は比較的容易だが、このマーカーは標的臓器や生体に対する影響を評価できるものではない。癌の場合、曝露マーカーは、発癌化学物質の代謝産物、例えば、多環芳香族炭化水素のピレンの代謝産物である尿中1-ピレノールがそれにあたる。一方、DNA付加体も曝露マーカーのひとつであるが、尿中代謝産物よりはがんに直接的に関連すると考えられため生物学的影響量ともいわれている(図2)。その他、喫煙における血清、唾液中のコチニン、鉛曝露による血中鉛がある。

2つ目の影響マーカーとは、健康障害、疾病に関連した生化学的、生理学的、行動等への影響を測定するものであり、癌の場合は、遺伝子異常、姉妹染色分体交換といった変化であり、鉛曝露の場合、赤血球中のデルタアミノレブリン酸脱水酵素活性などが影響マーカーである。すなわち特異的な曝露に対するリスクの評価やある個体の発癌リスクを評価に利用することが可能である。

3つ目が感受性マーカーであり、外来化学物質に応答する生体の遺伝的、後天的素因である。このなかには、癌原性化学物質を代謝する薬物代謝酵素、変異がおきたDNAを修復するDNA修復酵素、さらには異常細胞を取り除く免疫機構などの個体差が含まれる。感受性マーカーは、化学物質に対する高感受性集団あるいは疾病発症の予測に用いることが可能である。感受性マーカーのなかで、最も研究が進んでいるのは薬物代謝酵素の個体差であり、この薬物代謝酵素の"遺伝子多型"のもとづく個人差が種々の酵素に認められ、発癌性の個体差や、産業現場で使用される化学物質作用に影響を与えることが報告されている。

化学物質の代謝酵素と感受性バイオマーカー

我々は、食事、嗜好品、薬物、産業現場、大気・水などから様々な化学物質を吸収している。摂取された化学物質がそのままの構造で生体になんらかの作用を現すこともあるが、多くの場合代謝活性化を受け、発癌性や毒性を示すことが多い。この代謝的活性化反応に関与する酵素が薬物代謝酵素という範疇に属する酵素であり、生体内基質や生体外化学物質の代謝に関与し、生物学的活性を失活させたり、水溶性化学物質へ変換し生体外で排泄しやすくする働きを担っている。

一般的には、多くの化学物質の代謝は代謝第1相酵素であるシトクロームP450 (CYP)による活性化代謝と代謝第2相酵素である抱合体酵素による解毒化反応によって構成されており、この代謝的バランスが化学物質に対する感受性に重要な役割をはたしていると考えられている。このような考え方から、薬物代謝酵素のレベルが環境中から生体内に入る化学物質の代謝能力の個体差をうみだし、個人の発癌性や作用感受性を修飾している要因となっているという仮説がたてられる。

以上のことから、これまでに様々な薬物代謝酵素の個体差と発癌性を含めた化学物質の毒性に関する多数の研究結果が報告されている。

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