近代医界の巨人 北里柴三郎
近代医界の巨人
北里柴三郎博士は、熊本県阿蘇郡小国郷北里村にて生を享け、熊本大学医学部の前身である熊本医学校(古城医学校)にて学んだ、世界の医学史に残る研究者である。
去る平成15年3月には、この近代医界の巨人北里柴三郎博士を生んだ熊本の地において、熊本大学医学部を中心に「北里柴三郎博士生誕150周年記念事業」が開催された。
熊本大学大学院公衆衛生・医療科学分野にて北里柴三郎博士を語るにあたり、この記念事業の一環として当教室が関係したものを中心に紹介させていただきたい。
論文
「北里柴三郎と緒方正規のこと」
二塚信 著
(熊本大学大学院医学薬学研究部公衆衛生・医療科学分野第4代教授・熊本大学名誉教授)民族衛生(1):1-1, 2003. より抜粋引用
平成15年1月29日は近代医学の巨人、北里柴三郎博士が肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生を享けられてから150年に当る。この機に地元熊本では、熊本大学医学部を中心に記念事業会を興し、胸像建立、記念フォーラム、展示会、記念出版等の企画が進んでいる。
熊本はまた東京大学に衛生学を開講した緒方正規博士を河俣村小字鶴に生んでいる。この両巨星は明治4年、古城医学校(熊本医学校)の一期生として入学した同級生である。緒方、北里両先生の間には脚気病原、ペスト菌、赤痢菌など病原論争が社会の注目を浴び、さらには伝染病研究所の管理移管問題も重なり、お2人の不和は社会的に誇張され伝えられた。しかし、これは必ずしも真相ではないことを、この機会に僭越ながら同郷、同窓の後輩として紹介させていただきたい。
明治27年、内務省の伝染病研究所の北里博士が東大医学部内科の青山胤通教授と香港のペスト流行の調査に派遣され見事な成果をもって帰国したとき、東大医学部の学生が企画した歓迎会に青山教授の他、大学の先輩でもある北里博士を招待するか否かで学内各層の意見が紛糾したことがある。そこで学生の委員は各教授を歴訪して意見を聞くべく、まず緒方正規教授を訪ねた。緒方教授は反対意見について「昔から親しい因縁のある人であるし、学問上のことなどで世間ではそういうことを云うのかもしれないが、決してそういうことはない。そういう誤解があってはなりません。」と諄々と穏やかに委員に説いたという。
また、明治43年、緒方教授在職25年祝賀会が盛大に挙行されたとき、北里博士は自らすすんで門弟総代としての祝辞を引き受け、緒方教授の学勲を称えて誠に感銘深い演説を行ったことは、いまに語り継がれている。北里博士はまず、門弟として細菌学の手ほどきを受けたことを述べたあと、先生との間の学術論争での失礼を詫び、緒方教授がわが国に実験医学を導入し近代医学の先駆者の役割を果し、多くの人材を育てていることを強調した。この会のあと緒方教授は麻布の北里博士の宅に挨拶に赴いている。
緒方教授はまた、伊豆伊東の北里別荘に家族とともによく遊びに行っていたという。
大正8年7月、緒方教授の臨終の前日、緒方教授は枕頭に立った北里博士に「よろしく」とその手を握ったと伝えられている。
お2人の性格は対照的ではあるが、同じ熊本の医学校に学んだ同郷同学の士として、学問上の論争の激しさとは別にお互いにあい許す一面があったのである。
細菌学史には、欧米にも認められた明治日本医学の業績として、北里博士の破傷風血清療法とペスト菌発見、緒方教授のノミ体内のペスト菌証明、志賀潔博士の赤痢菌発見の4件があげられている。
明治後半期、熊本県出身の東大医学部の学生と医学士の会の世話をしていた小畑惟精博士(元日本医師会長)は「北里先生のところに行きますと、何だか威圧されたような感じがしました。しかし、どういうものか甘えてみたいという気分も致しました。緒方先生のところへ参りました時の感じは、恐ろしいきちょうめんな先生だ、しかしながら非常に親しみやすい、あるいは親切な先生だという感じがしました。」と、その当時を回想している。
(本論文は恩師野村茂先生から多大のご教示を頂いた。ここに記し、謝意を表する。)
著書
「北里柴三郎と緒方正規 日本近代医学の黎明期」
野村茂 著
(熊本大学大学院医学薬学研究部公衆衛生・医療科学分野第3代教授・熊本大学名誉教授)
発行所:熊本日日新聞社
制作発売:熊本日日新聞情報文化センター
北里柴三郎博士生誕150周年記念出版
関連リンク
・小国町役場 > 北里柴三郎記念館
http://www.town.oguni.kumamoto.jp/ognhtml/Event/Kitazato.htm
・財団法人北里研究所 > 北里柴三郎記念室
http://www.kitasato.or.jp/kinen-shitsu/